Se connecter珠希の姿が、駐車場へ続く通路の向こうへ消えた。その背を見届けてから、雪臣は直人へ向き直る。
直人に名を呼ばれた珠希は、その場から一歩も動けずにいた。雪臣が先に帰るよう告げるまで、まるで出口を見失ったかのように。 先ほど、会社の共有ワークスペースで珠希が目を逸らしたときの顔が、まだ頭から離れない。「はっ。逃げることねぇだろ。雪臣、お前、珠希に何か吹き込んだか?」 直人は薄く笑っていた。「ここで話すつもりはない」「俺だって、こんな場所で揉めたくねぇよ。少し歩け」 直人が先に角を曲がる。雪臣も杖をつき、そのあとを追った。シカクイの館内から漏れていたクリスマス曲が、徐々に遠のいていく。冬の乾いた風がビルの間を吹き抜け、上着の襟元へ入り込んだ。通りを行く人の足音はまばらで、立ち止まる者はいない。 シカクイからいくつかの建物を隔てた路地の奥。そこまで進むと、直人が振り返った。白地に騒々しい柄のスーツが、街灯の下でひどく目についた。「催事の結果、見たか」「見た」三年前。 まだ氷室百貨店の営業部主任として、宝飾売場を担当していた頃のことだった。 閉店後の二階には、日中とは違う静けさがあった。HIMUROの店舗では展示の入れ替えが進んでおり、外した台座や空き箱が、通路の端へ寄せられている。 今回は、白い羽根を使ったレイアウトにすることが決まっていた。店長と社員が商品や什器を動かす横で、あず実は展開図を開いていた。 その日は、HIMURO MOTOMACHIの社長に就任したばかりの雪臣と、秘書の瀬原も確認に訪れていた。 「もう少し前へ。石に影が落ちています」 雪臣の言葉に、店長が台座の位置を変える。あず実も正面へ回り、見え方を確かめた。 「この位置でしたら、通路からもよく見えますね」 瀬原が確認すると、続いて雪臣が頷いた。その耳元で、小さなサファイアが光る。 ……彼がいつも着けているピアス。サファイアの深い青が印象的なそれは、長年顧客に愛されてきたHIMUROの定番シリーズだった。以前、何気なく「お洒落ですね」と声をかけたことがある。すると雪臣は、趣味で着けているのではなく、自社の商品を自ら身に着け、その魅力を示したいのだと答えた。 あず実は、その言葉をよく覚えていた。普段は口数の少ない人だ。けれど、自分たちが扱う商品への自信を、彼は毎日身に着けて示している。 仕事の確認にも、曖昧な返事はしない。自分とそう年齢も変わらないのに、ひどく真面目な人だと思っていた。 「氷室社長、瀬原さん、こちらへ」 案内すると、二人は軽く会釈をしてあず実へ続いた。 社員たちが次の展示台を整える中、雪臣は作業台の脇に用意された椅子へ腰を下ろした。杖をそばに置き、瀬原から受け取った資料に目を通す。 あず実も手元の図面と実際の売場を見比べた。 「こちらのケースには、羽根を少なめに配置する予定です。商品同士の間隔も――」 話しながら顔を上げると、雪臣が台の上の袋を手に取っていた。 まだ開封していない、白い羽根の袋だった。 袋の両端をつかみ、彼が左右に引く。口がぴんと張り、もう一度力が加わると、端に
もう過ぎたことだ。 かつて、氷室雪臣が好きだった。 好きだったことに、していた。 * * * 「婚姻期間は一年っていう約束だから……来年の九月には離婚するんだよね。私たち」 一昨年の仕事で作った冊子を取りにデスクへ戻り、打ち合わせ室の扉の前まで来たあず実は、ノックしかけた手を止めた。 扉の向こうから、雪臣の妻――珠希の声が聞こえたからだ。 あず実は思わず息を止めた。 ――氷室社長と、珠希さんが……離婚? 一瞬、聞き間違いかと思った。 だが、もし本当なら。 一年という約束も、九月に離婚するという話も、意味は明白だった。 扉の向こうで、二人はおそらく、あず実が聞くべきではない話をしている。そう分かっていながら、立ち去ることも、扉を開けることもできなかった。 「……あぁ、そうだ」 少し間を置いて届いた雪臣の返事に、冊子を抱くあず実の指が強張る。鼓動がうるさいほど速くなった。 来年九月には、二人は夫婦ではなくなる。しかも、今決まったのではなく、あらかじめ交わしていた約束らしい。 なぜ結婚したのか。なぜ一年と決めたのか。何も分からない。ただ、雪臣は否定しなかった。 あず実は冊子の表紙に目を落とした。自分で取りに行くと言って席を外した以上、いつまでもここにはいられない。 息を吸い、扉を小さく叩く。これまでと変わらない仕事中の声を出すよう努めた。 「お待たせしました」 二人が顔を上げた。 「こちらをご覧いただけますか」 「……はい」 珠希の前で冊子を開く。紙面を押さえる彼女の左手には、先ほどと同じ指輪があった。隣では、雪臣もページに目を落としている。 夫婦で作ったマリッジリング。その話を聞くため、今日は仕事として二人に来社してもらった。それだけのことだ。 ほんの数分前まで疑いもしなかった事実を、頭の中で確かめ直している自分がいた。 珠希がこちらを見たので、あず実はとっさに口元を緩めた。うまく笑えたかは分からない。
翌日、珠希は雪臣と氷室百貨店を訪れていた。 周年企画で『環愛』の制作背景を紹介したいので、二人から話を聞かせてほしい。そんな依頼が、百貨店の企画部から届いていたのだ。 二階の宝飾フロアを歩きながら、珠希は隣にいる雪臣の袖口を見た。 ――もうちょっとだけ、一緒に。 昨夜、自分から雪臣を引き止めたことを、ふと思い出してしまう。彼は今、いつもの顔で前を向いている。珠希も、持参したデザイン画の入ったファイルを抱え直した。 「氷室社長、珠希さん。お待ちしておりました」 長い前髪を耳にかけながら、細身の女性が近づいてきた。氷室百貨店の企画部長、火野あず実だ。以前、展示場所を見に来た際にも、商品の意図や照明について的確に確認してくれた人だった。 「本日はお忙しいところ、ありがとうございます。三十分ほど、お時間をいただければと思います」 案内された打ち合わせ室で、珠希は雪臣と並んで座った。あず実が向かいの席でノートを開く。 「今回は、商品の特徴だけでなく、環愛が誕生するまでの背景も、お客様にお伝えしたいと考えています。以前、HIMUROの工房をご紹介した特集記事のような形をイメージしています」 「あぁ、二年前のものですか」 雪臣が尋ねると、あず実は頷いた。 「はい。そういえばあのときも、氷室社長とは写真選びでずいぶん遅くまで……」 「ぎりぎりまで差し替えていましたね」 「氷室社長が、一からやり直したいとおっしゃったときは、少し驚きました」 あず実が懐かしそうに笑う。雪臣も、何のことかすぐに分かったようだった。 「申し訳ない」 「いえいえ。おかげさまで売場でも好評でした。写真を見せながら、お客様に作りの違いを説明できるようになったと。今でも活用しているんですよ?」 「いや。火野さんの説明文が分かりやすかった」 「そこは、何度も書き直しましたから」 あず実はそう答えてから、珠希へ顔を向けた。 「一昨年、うちの企画で、HIMUROの職人さんにお話を伺いまして。作業中のお写真も撮らせていただいて、フリー冊子にまとめたんです」 「そうだったんですね。私も見てみたいです」 「あとでお持ちしますね。手元がよく見える写真なので、面白いと思います」 「ありがとうございます」 珠希は頷き、隣の雪臣を見た。 きっと、一昨年の特集
風呂を済ませると、珠希は「今日は先に休むね」とだけ残して、二階へ上がってしまった。 雪臣は一人、リビングのソファでタブレットを開いていた。画材の通販サイトを閉じ、美術館のホームページを眺める。どれも急ぎの用ではない。あてもなく、女性に喜ばれるクリスマスプレゼントの特集記事を開いては閉じることを繰り返していた。 時計を見ると、十一時を過ぎている。 違和感があった。 ここしばらくの間、夜、ソファに一人でいることはなかった。 風呂を済ませれば、自然と珠希がこのソファで何か話し、雪臣が短く答える。そんな時間をしばらく過ごしてから、二人はそれぞれの部屋へ戻る。 同居を始めたばかりの頃はそわそわしていたが、いつの間にか雪臣にとっては、その時間がないとかえって落ち着かなくなってしまったようだ。 雪臣はタブレットを閉じた。 階段の脇で、椅子式昇降機に腰を下ろす。珠希はもう眠っているだろう。操作ボタンを押すと、椅子がゆっくり動き出した。 杖を頼りに上がるより、ずっと体は楽だった。分かっていても、珠希の前では使いたくない。この昇降機に座って運ばれる姿を、彼女には見せたくなかった。 二階へ着き、杖をついて立ち上がる。そのとき、珠希の部屋のドアが開いた。 「……雪臣くん」 急に声がして、雪臣は椅子から離れた。珠希はたった今、部屋から出てきたところだ。昇降機に座る姿を見られたわけではない。 「どうした」 「なんか、眠れなくて」 廊下へ出た珠希が、ドアをそっと閉める。 「雪臣くん、まだ起きてたんだね」 「調べものをしていた」 「そっか。遅くまでお疲れさま」 無理に笑っているような珠希の顔を見て、雪臣は昼間の共有ワークスペースを思い出した。目が合っても、彼女は笑わなかった。あのときは、そっとしておく方がいいと思ってその場を離れたが、元気のない彼女を見て、今さら後悔している。 「……タマ。昼間も、何かあったか」 「……え?」 「会社で」 珠希の目が、わずかに大きくなった。 「あぁ。うん……ちょっと、昔のことを思い出して」
タクシーのドアが閉まると、通りを行き交う人々の声が遠のいた。 雪臣は行き先を告げ、座席に身を預ける。上着の襟は整えたはずなのに、直人に胸ぐらを掴まれた感触がまだ残っていた。これほど激しく憤ったことは、数えるほどしかない。 ――俺はお前と違って、ずっとあいつのそばにいたんだ。 それは事実だった。直人は、雪臣が決して届かなかった珠希の隣に、何年もいた。だからこそ、あの男が先ほど吐いた言葉のひとつひとつが、今も許せない。 タクシーの窓に、ぽつりと雨粒がついた。追うように、もう一粒、また一粒。街灯の光が濡れたガラスに滲んでいく。 雪臣は、珠希の右手の薬指でいつも煌めく、ビーズの雪の結晶を思い出していた。 ――これ、直人さんが見つけてくれたの。 入籍前、一緒に暮らし始めて間もない頃。以前一度だけビーズの指輪をなくしたときのことを、彼女は雪臣に話した。あのとき、懐かしむような声を聞いて、雪臣は何も言えなかった。そして今も、言えずにいる。 ◇ ◇ ◇ 大学四年の秋――珠希の右手から、雪の結晶が消えた。 最初に異変を感じたのは、キャンパスの道で珠希とすれ違ったときだった。彼女は片手に資材の入った紙袋を抱え、もう片方の手を開いたまま、足元を確かめるように歩いていた。 そのときは指輪をなくしたとは思い至らなかった。だが翌日も同じ道で何かを探す姿を見て、彼女の手からビーズの指輪が消えていることに気づいた。 大学一年の秋。雪臣の長い恋が始まった日。学食で向かいに座り、ナポリタンを食べていた珠希が、その指輪を一度だけ見せてくれた。幼い頃、母親と一緒に作ったものだと話していた。 ――つけてると、少し嬉しくなれるから。 窓際のテーブル席で、指先でビーズのモチーフを回しながら、彼女は笑っていた。逆光に照らされた黒髪も、誰かを笑顔にできるジュエリーを作りたいと言った声も、はっきり覚えている。 ――あの指輪をなくしたのか……。 その日の卒業制作の指導が終わると、雪臣は珠希が歩いていた道へ引き返した。舗装の上を見渡し、縁石の隙間を確かめる。人が近づくたびに手を止め、通り過ぎるとまた探した。
珠希の姿が、駐車場へ続く通路の向こうへ消えた。その背を見届けてから、雪臣は直人へ向き直る。 直人に名を呼ばれた珠希は、その場から一歩も動けずにいた。雪臣が先に帰るよう告げるまで、まるで出口を見失ったかのように。 先ほど、会社の共有ワークスペースで珠希が目を逸らしたときの顔が、まだ頭から離れない。「はっ。逃げることねぇだろ。雪臣、お前、珠希に何か吹き込んだか?」 直人は薄く笑っていた。「ここで話すつもりはない」「俺だって、こんな場所で揉めたくねぇよ。少し歩け」 直人が先に角を曲がる。雪臣も杖をつき、そのあとを追った。シカクイの館内から漏れていたクリスマス曲が、徐々に遠のいていく。冬の乾いた風がビルの間を吹き抜け、上着の襟元へ入り込んだ。通りを行く人の足音はまばらで、立ち止まる者はいない。 シカクイからいくつかの建物を隔てた路地の奥。そこまで進むと、直人が振り返った。白地に騒々しい柄のスーツが、街灯の下でひどく目についた。「催事の結果、見たか」「見た」「あの館で、INUIはお前の常設店の三倍以上売った。次の施設からも話が来てる」「そうか」「周年記念まで、指をくわえて待ってるんだな。まあ、どれだけお前のところに客が来るか知らねぇが」 直人はネクタイを緩めながら、満足げな顔をしていた。 雪臣は、会議で聞いたINUIの催事結果を思い返す。 催事区画と常設店では、客を呼び込む条件が違う。それでも、INUIが新たな客を呼び、利益を上げたのは事実だ。HIMUROの方針を変える理由にはならないが、無視できる数字でもない。「お前の言うとおり、INUI Jewelryの企画は成功した」 雪臣がそう告げると、直人は一瞬目を見開いた。その視線が雪臣の顔から杖の先へ落ち、すぐに戻る。「……偉そうに上から評価してんじゃねぇよ」「どうでもいい」 直人の眉がぴくりと跳ねた。 雪臣が聞きたいのは、仕事の話ではない。「お前、さっきタマに何を言うつもりだった」「…&hell